concept
plan
What's LomoHeads?

LomoSprin'Wall
concept


我々はLomoSprin'Wallで何をやりたかったのか?


Lomoユーザーが日増しに増えてきた。海外ではlomo展が頻繁に行われている、と風の噂も聞いた。ドイツのフォトキナでウイーンlomoが大ブースを展開したレポートも見せられていた。日本でも展覧会をやりたい。その気持ちが日増しに強くなっていった(ユーザーたちが無言のメッセージでそういってるような気がした)。しかし、不安があった。当時の(今も?)Lomoユーザーの多くは付属の写真集に見られる異国のLomographyに憧れていた。そこにある写真は日本の「色」とは全く異なる鮮やかさで我々を魅了した。

当時、日本で写真を集めてどのレベルの写真がどれくらい集まるだろうか?それは全く未知数だった。フタを開けてみたら、使えない写真が数10枚集まっただけ、っていうことも充分あり得た。ただ、1998年7月からlomoメーリングリスト(現在は停止中)がスタートしており順調にメンバーは増えていたし、メールも活発に流れていた。ある程度の投稿は期待できるかもしれない。そう思った。(後でわかったことだが、MLへの投稿と作品の投稿、またカメラに関する知識と写真の善し悪しっていうのは全く関係ない。MLというコミュニケーションと表現としての写真は全く別ものだった)。とにかく写真展を、それも普通のどこにでもある写真展とは違ったものをやろうと決心した。後のラフォーレでのTokyoLomoHeads展のページで触れているが、当時、最初の展覧会の場所としては無謀にもラフォーレ・ミュージアムしか頭になかった。しかし、そう簡単にはいかなかった。そこで、ラフォーレでいつか必ずと思いながら、別の場所を探すことになった。

なかなかいい場所に出会えなかったが、ひょんなことから青山ブックセンター本店にたどり着いた。最初は写真展の開催場所として考えていたわけではなく、写真展開催と同時にカメラや写真集(F1を撮ったlomo写真集が出たばかりだった)をカメラ屋さんではないとこで販売したくて青山ブックセンターを訪ねた。その収益をイベント費用にと考えていた。そんな時、青山ブックセンターの担当者Sさんが、うちのウインドウで何かできそうかも、と言った。その瞬間、一気に気分は青山ブックセンターへ!ラフォーレのことはしばらく頭から吹っ飛んだ。

こうして青山ブックセンター本店のウインドウ、全長36メートルを使って日本ではじめての本格的lomoExhibitionがスタートした。コンセプトなんてなかった。いつもそうなんだけれど、コンセプトやテーマなんてものはただの言葉の方便だ。ただやりたい衝動があったからやっただけだ。あえて言うなら、いつも同じセリフ、「たった今」のイメージが見たかった、それだけだ。

開催決定後、ほどなくしてウイーンLomoの代表マティスが来日した。僕は青山でのLomoSpringWall(当初はこのタイトルだった)の企画書をかかえて早朝に彼のホテルを訪ねた。この最初のミーティングは何故かお互いしっくりこなかったが、イベント制作を共にやっていくうちに、すっかり意気投合した。ある時、横浜の飲み屋で、彼が聞いた。「お前が考えるLomoってどういうことか?」 僕はSly Stoneの有名な歌で答えた。
「Everybody is Star!」。そして自分達は「LomoHeads」を作りたいんだ、っていった。僕はこの時はじめてLomoHeadsって言う言葉を口にした。彼は本当に嬉しそうに笑った。 この関係は2000年のSurugadaiHotelProjectがスタートする直前まで続いた(いやあ、懐かしいね。彼とはまたいつかどこかで何かやって一緒に笑いたいなあ)。

青山のイベント制作はハードで楽しかった。我々は1ヶ月以上、これにかかりっきりになった。毎日、金は飛ぶように消え、仕事はドンドン増えていった。ウイーンのマティスと日本のlomoユーザーが一緒になって展覧会を制作したこと、それはちょっとない体験だった。これは、僕達とlomoユーザー、そしてウイーンlomoとの最初で最後のコラボレーションになった。僕は、ここではじめてユーザーたちと出会い、飲み屋と制作、制作と飲み屋、そんな日々を過ごした。

不安材料だった写真は、投稿者数は数十人だったけど、全国から選りすぐりの写真が集まってきた。写真が足らな場合はウイーンから持ってきた写真で構成しよう思っていたが、その心配は消えた。青山のLomoSprin'Wallはほとんどが日本の投稿写真で埋められることになった。かわいい写真から、ウイーンLomoの影響をモロに受けた写真、ちょっとエロいのからアンダーグラウンドなイメージまで、様々なイメージが集まった。マティアスも、僕らも驚いた。

この時のWallは、SurugadaiHotelProjectを終えた今の地点から見れば、どうしようもなく幼稚で、ウイーンlomoの物真似でしかないかもしれない。だが、全ての処女作がそうであるように、青山のwallは、甘くて、苦くて、懐かしくて、遠い、初々しい記憶になって心の深いところに沈んだ。

青山ではlomoに関わってはじめていくつかの不愉快も体験した。この体験は、その後、我々が、ほぼ単独で(といってもいつもlomoユーザーと一緒だったけど)活動していくことになるキッカケとなった。またTokyoLomoHeads誕生のキッカケともなった。世の中、悪いことばかりでなはないってことだ。

僕らは制作中は記録写真なんて撮らない。自分達は制作で手一杯でそんなことは忘れてるからだ。だから、こうやって振り返ったとき、何も残ってないことに驚く。撮っておけばよかった、ホント。まったく、成長しないんだな、これが。

もし、あなたがLomoSprin'Wallを撮ったいい写真を持っているなら、是非、見せてください。メールはhideki@basscult.comまで。

最後に、このイベントに寄せられた感想で、死ぬほど嬉しかった言葉をひとつ。

「私のしらないところで、こんな楽しそうなことが行われていたんだ!」

これを感じてもらいたくて、いつも、今も、やっている。

大森秀樹(2001年2月27日)


>>>>next concept | plan


 

info:
この2つ見ました?
ロモユーザーの視点による最高のトーキョーロモヘッズレポート
HotWired--TokyoLomoHeadsインタビュー



現在の活動はここをCHECK!